津城(安濃津城)

春の津城北内堀と本丸石垣
春の津城北内堀と本丸石垣
紅葉の津城模擬隅櫓
紅葉の津城模擬隅櫓
津城想像図  織田信長の弟織田信包が、伊勢安濃津の地に、1580年(天正8年)に安濃津城を築城完成したのが津城の始まりです。
 信包が伊勢上野城から安濃津城に移ると、信包の世話になっていたお市の方と三人娘も共に安濃津城に移って在住するようになりました。そして、1582年(天正10年)に本能寺の変で信長が死ぬと、信長の三男信孝の勧めでお市の方が柴田勝家の妻となるまで、お市の方と三人娘は、御殿場海岸で船遊びをしたり、高田本山専修寺に参拝したり、榊原温泉に入ったりと、安濃津城で平和に暮らしました。彼女らが暮らしていたのは、信包時代の安濃津城にあった局丸ではなかったかと伝えられています。
 その後富田信高が城主となり、1600年(慶長5年)の関ヶ原戦の前哨戦で西軍に包囲されて落城焼失しました。徳川幕府になってから、家康の命で藤堂高虎が1608年(慶長13年)に伊予国今治から伊勢・伊賀国に転封されて、初代津藩主となり、高虎は1611年(慶長16年)から津城と城下の拡張整備を行い、現在の津城を築いたもので、高虎が確立した近世城郭の典型的な、日本一広い内堀の平城です。その後安濃津城は津城と称するようになりました。
 明治維新後城、建物がすべて取り壊され、外堀全てと内堀の大半が埋め立てられ、本丸、西の丸の石垣と内堀の一部しか残っていません。最近隅櫓と多聞櫓の図面が発見されその復元と整備が待たれています。