伊勢上野城

伊勢上野城跡 本丸跡と天守代跡の展望台
伊勢上野城跡 本丸跡と
天守代跡の展望台
二の丸跡
二の丸跡
二の丸下の郭跡の東屋
二の丸下の郭跡の東屋
遺構の溝跡
遺構の溝跡
伊勢上野城想像図  伊勢上野城は、現在の津市河芸町上野の伊勢街道沿いの、旧上野宿の西側背後の台地に造られた中世の城でしたが、その築城時期は不明で、室町時代に造られたのではないかと推定されてます。当時安濃郡分部(現在の津市分部)を本拠地としていた分部氏が、いつのころからか長野(工藤)氏の一族となり、1548年(天文17年)ころ長野氏からこの城を預けられて在城しました。
 その後1568年(永禄11年)に、長野氏は織田信長の伊勢国侵攻により信長と戦いましたが、和睦して長野氏は信長の弟信包を養子とし、信包は長野氏の宗主(本家の跡取り)となり、1569年(永禄12年)11月に信包に5万石を与えて伊勢上野城の城主としました。城主となった信包は、上野城を安濃津の仮城として、山の上の平地をすべて城地に編入して城を分部左京亮光嘉に命じて改修築城させました。信包は、上野城主となってから本城の安濃津城を築くため、1571年(元亀2年)から、普請奉行を分部光嘉に命じて、安濃津の地(現在の津城跡)で安濃津城築城に着手しました。その2年後の1573年(天正元年)に、浅井長政と、妻で信長の妹であるお市の方と三人姉妹(茶々、初、江)が居城していた近江国小谷城が、織田信長に滅ぼされて落城すると、生きのびたお市の方と三人姉妹は、信長の計らいで岐阜城と清洲城に一時滞在したあと、翌年の1574年(天正2年)に伊勢上野城の信包のもとに預けられ、親子ともども、それまで信包のもとにいた信長の生母土田御前とともに在城して、信包の世話になりました。
 その後1580年(天正8年)に安濃津城が築城されると、信包は安濃津城(のち津城と称するようになる)へ移り、お市の方と三人姉妹も信包とともに安濃津城へ移りました。信包が安濃津城へ移ると、上野城は安濃津城の出城となり、分部光嘉が城代として在城しました。しかし、1582年(天正10年)に本能寺の変で織田信長が滅び、続いて豊臣秀吉が天下を取ると、信包は秀吉から嫌われて上野領を没収され、近江国へ転封させられました。そのため、上野城の城代であった分部光嘉は、秀吉から1万石を与えられて、上野城主となりました。その後安濃津城籠城戦の論功行賞により、家康から1万石の増禄を賜わり、2万石の上野城主として引き続き勤めました。
 光嘉は翌1601年(慶長6年)に病死し、後継者光信が上野城主となりました。しかし、1608年(慶長13年)に藤堂高虎が津藩主として伊予国から転封されると、その後上野藩領は紀州藩領になって、上野藩は廃藩となり、1619年(元和5年)、上野城主光信は近江国大溝(現在の滋賀県高島市高島町大溝)へ転封されて、上野城は廃城となりました。
 以後荒廃したまま400年近く経ち、現在に至っています。現在は、天守台跡、本丸跡、二の丸跡は当時のままほぼ形を残しているほかは往時の城郭の状態ははっきりとしていません。しかし、中世の城としては、津市内でも比較的保存状態がよく、この機会に整備して観光資源として活用してほしいものです。